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桜田淳子という存在~登場の背景その2 [歌]

歴史は、時とともに、徐々に進化を遂げていく。

しかしながら、ある時期、突然変異的な変化を見せるときがある。

 

1970年代は、そんな時期だったのではないだろうか。

少し芸能界に的を絞ってみたいと思う。

 

1970年頃までは日本は、戦後復興の香りがしていたし、アメリカの背中を追いかけ高度経済成長の段階にあった。

特に、テレビなどは生産量を伸ばし、世界一までになった。

そのため、1970年になって、二重価格問題に直面することになる。
日本の外貨獲得が鈍化するとき、消費は国内に向けられていく。

そしてテレビの販売価格が下がったことで、テレビがよりお茶の間に浸透していくことになる。

そんな時代の『バラエティ番組』の変遷という理解でいいと思う。


そして萩本欽一さんの芸能の変遷にその傾向を見ることが出来る。


萩本さんは、70年代、素人をテレビに引き込み、そこから番組作りを進めていく。

プロを出せという人ほど、テレビの素人だ。

という考え方があるという。

逆説的な言い方だけれども、そこにそれまでの舞台や映画とは違うテレビの特殊性があると、萩本欽一さんは考えていたのだろう。

それまで芸能界を支えていたのは、渡辺プロの一極集中的な様相だった。

そこにあるのは、芸能のプロ集団であった。


ところが、素人を、テレビに引き込むことは、芸能のプロが脇に行くことを意味するのかもしれないし、芸の低下を招き、ひいては番組の低下を招くかもしれない。

そこには水面下の戦いがあったことは想像に難くない。

 

しかしながら、ここにテレビタレントは独自の道を歩み始めることになっていく。

こうして、お笑いの分野では、独自の芸風が進んでいく。

スベリ芸などはその典型となる。

 

こうした傾向は、歌手という分野にもあり、テレビ局は職業としての歌手を養成するようになる。

それが、萩本欽一さんが司会を務められた『スター誕生』だと思う。

しかしながら、スター誕生の審査員の審査基準は当初明確ではなかった。

テレビ界が求めるスターとはどんなものだったのだろうか。

 

そこに明快な答えを提示したのが、1972年オーディションに参加した桜田淳子さんだった。

そして、7月の秋田大会、9月の全国大会で、素人には出せぬオーラといっていい輝きを見たとき、審査員を始め関係者の審査基準は決定されたのだろう。

 

その年の12月、審査員の前に別の才能が登場する。

山口百恵さんだった。

審査員の阿久悠さんは、厳しい注文をつけるが、それは、審査基準からすれば、当然の帰結だった。

テレビが求めたのは、百恵さん的な静けさではなく、淳子さん的な楽天的な明るさだったのだから。

しかしながら、この時代背景を映し出す基準を今の価値観ではかることはだれも出来ないだろう。

 

それでも、このテキストの正しさは、80年代アイドル文化の隆盛を見るとき、正直うなずける。

そしてこれが、『正統派の系譜』になっていく。

 

もちろん、山口百恵さんを意図的に外すつもりはない。

80年代以降、山口百恵さん風の人は何人か現れた。

しかし、山口百恵さんを超えることはないし、多分、山口百恵さん自身をもってしても、超えることは出来なかっただろう。

それが、70年代という手作りの時代であり、試行錯誤の時代だったことの証なのだと思う。

瞬間的に時代を超えたという表現でいいと思う。

残念ながら、その時代を超えたとき彼女は引退してしまったのだが。

 

ここでアイドルとは何か。

もう一度向き合うことが必要なのかもしれない。

当時のアイドルは、テレビが作り上げたと言っていいのだろうが、そこには、作詞家、作曲家を始め、多くの才能が集まり、育て上げてきた。

日本の物作りの原点に、作り込むという職人的な発想があると思うのだが、同じ事は70年代のアイドルにもあった。

そして、その作り込む過程にはファンが参加していたことは、特筆すべき事だと思う。

 

そして、オーデション出身者は、忠実に再現してきた。

その中心に桜田淳子さんがいたことを改めて指摘するまでもない。

 

その過程の中で、1973年暮れ決定的な事が起こる。

その年の新人賞を総なめしたのは、桜田淳子さんだった。

それは、桜田淳子さんのその後の活躍を見越してのモノだったことはもちろんであった。

と同時に、渡辺プロ中心の芸能界に風穴を開け、その後のテレビ界のあり方を方向付けるには象徴的な出来事だった思う。

 

 

この動画の中で、桜田淳子さんが、『周りの大人たちが、百恵VS淳子』と煽ったとあるが、大人の思惑が、非常に残念なことではあるが、二人の関係を微妙にしたことを指摘しておくに止めようと思う。

それは、恐らく、二人の進化を必要以上に早め、ひいては芸能界を去ることを早めたのかもしれないから。

動画のUP主様に感謝します。


アイドルということー青春の桜田淳子さん [歌]

これまで『アイドル』という言葉を、無批判に使ってきた。

しかし、僕らの知る70年代は違っていた。

 

1974年5月のことだった。

 

僕たちは、中学三年に進級し、県大会を目指していた。

しかし、地方大会で立ちはだかるのは県大会ベスト四のチームだった。


 

隣町で何度も何度も練習試合が組まれた。

しかし、一度も勝てなかった。

6月のある日、翌日の中体連に備え、早めの練習を切り上げ、先生の訓示の後、ユニフォームが渡された。

帰りに本屋で立ち読みしていたら、近くに来る人影があった。

隣町のライバル校の部活の先生だった。

 

調子はどうだと聞かれ、即座に『勝ちます』と答えたことを今でも覚えている。

勝てる根拠など何もなかった。

一緒にいた友達に、帰りに『いいのか。あんなこと言って』とたしなめられたと思う。
 

翌日、接戦になったが、僕らは勝ち抜いた。

 

そんな壁を破った時に流行った歌が、『黄色いリボン』だった。

今でも、この歌を聴くと体中に力がみなぎってくる。

負ける気がしない。

困難を切り抜ける力がわき上がる。

不謹慎ながら、試合中、歌を口ずさむことさえあった。

それは、むしろピンチの時だったと思う。


 

この力の源泉は、この曲の旋律であり、使用される楽器であり、ちりばめられた歌詞にあり、一人の歌手の優しくも力強い視線にあったのかもしれない。


 

 

週刊文春8月15日号にこんな書き出しの記事がある。

『昭和アイドルの歌声には時代を作る力があった』

この表現は素直に実感できる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

アイドルとは何か。

この問いに対する答えは難しい。

【中略】

だが、昭和の頃は違った。

アイドルとはマイクを握ってステージに立つものだった。

歌わなければアイドルではない、私たちはそう信じていた。

だからこを、曲そのものがもつ『力』が必要だった。

アイドルは歌唱力に磨きをかけ、衣装や髪型、振り付けにも様々なアイディアがこらされた。

【中略】

筒美京平、松本隆、阿久悠といった当時一流の才能が集まり、一つの卵を本気で育てようとした結果、アイドルはまばゆいばかりの光を放った。

そして、歌は時代を貫く力を持つことができた。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

これまで、正直アイドルということに、抵抗を感じてきた。

当時アイドルということを言葉としてどれほど使い分けていたか、疑問だった。

 

おそらく、自分自身、1980年を過ぎて、明確にアイドルとして理解できるようになったのではないかと思う。

 

1970年代に多くのスタッフにより手作りでアイドルが生まれ、1980年代にマニュアルに従い多くのアイドルが生まれ、一つの文化として、花開いたのではないかと思う。

 

それが昭和の終わりとともに、形を変える。

もはや歌わないパフォーマンスも含めアイドルと呼ばれるようになる。

それとともに、それまでの本来のアイドルは後退するようになる。

 

再び週刊文春を引用する

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

今やグラビアアイドル、アイドル女優、ひいては秋葉原の地下アイドルまでいる。

全てをひとくくりに定義するのは至難の業だ。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

明らかに、今のアイドルと昭和のアイドルとは異なっていた。

それが、今アイドルということに躊躇を覚える原因なのだと思う。


 

もし、青春時代の僕らのアイドルが、僕らの理想型として現実のものになり、それに対しいくつかの選択肢が与えられたとするならば、それは一過性のモノに過ぎなかったのかもしれない。

 

しかし、僕らの共有する70年代アイドルとしての桜田淳子さんは、僕らとともに成長してくれたし、単にスタッフにとどまらず、ファンが参加してのものだった。

そこに手作り感があるし、価値観の共有が生まれる背景があるのだと思う。

 

男性ファンには理想の恋人であり、女性ファンには理解し合える友達であり、まだ小さい子には優しいお姉さんだったのかもしれない。

 

1990年だっただろうか。

会社でチケットをもらって、驚いたことがある。

『オーロラの下で』の配役で、桜田淳子さんを見たときだった。

驚きと躊躇を覚えながらも、銀座まで見に行った。

 

ストーリーはほとんど覚えていない。

覚えているのは、僕の知る桜田淳子さんはそこにはいなかったことだった。

 

アイドル時代のように周りから浮き上がったという感じではなく、溶け込んでいるといった感じだった。

既に女優だった。

帰り道に、これでいいんだと自分に言い聞かせていたことを覚えている。

 

70年代アイドルが、今もテレビに姿を見せ、週刊誌で特集を組む。

それは、テレビが主導した歌謡史の原点なのだろう。

そして、僕らは偶然にもそれに立ち会うことが出来た。

 

追伸 動画のUP主様および、引用の記事に感謝します。


1975年のかほり~桜田淳子さんの輝きの時 [歌]

誰にだって思い出に残る時がある。

いつだって思い出に残る歌がある。

そんな時代のそんな歌だった。


 

布施明 シクラメンのかほり


 

人を思うことの愛おしさ。

人がいないことの切なさ。


 

そんな気持ちを思い出させてくれる。


 

時は1975年のことだった。


 

私は、この年の4月親元を離れ、高校に進学していた。

昼は、部活中心の学校生活に戸惑い。

夜は、初めての一人暮らしにシックになったのかもしれない。


 

だから、余計にこの歌が心にしみたのだろう。


 

そして、もう一つ心を癒やしてくれたのは、桜田淳子さんだった。

この年の彼女の歌声には力強さがあったし、目の輝きには独特の鋭さが感じられた。


 桜田淳子 17の夏

 

この動画で、『淳子ガンバレ』という横断幕が見える。


 

そうじゃない。


 

誠に情けない話だが、この年、励まされていたのは、間違いなく僕の方だった。


 

それは、『男なら頑張りなさいよ』

今に思えば、そんな、強いメッセージがあったように思う。


 

この年のレコード大賞は、布施明さんであり、大衆賞は桜田淳子さんだった。

この年最も活躍した二人が受賞したのは、当然のことだったのだろう。

1975年の受賞が示すとおり、芸能界を沸かせたことは間違いないし、オイルショック後の低成長期を芸能面から支えてきたことは疑うべきも無い。

そして、その後二人とも、忘れ得ぬコントも含め、それぞれの芸域を広げていったのは印象深い。
 

80年に入るや、布施さんは女優のオリビアハッセーさんと結婚後アメリカにシフトし、桜田淳子さんは徐々に女優に、舞台にとシフトしていく。 

そして布施さんは、その類い希な歌声で、今でも現役で歌い続け、桜田淳子さんは信念に従い平穏な家庭生活を送っている。

かつて、布施明さんは3億円事件との関わりで、桜田淳子さんは宗教問題で、芸能雑誌を賑わせたが、いまでは、遠いことのように思う。
 

今に、幸が多からんことを祈るばかりだ。

 

追伸 動画のUP主様に感謝いたします。


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桜田淳子さんから自由になる [歌]

『8時だよ全員集合』という、お茶の間のお化け番組があった。

土曜日8時は、毎週欠かさず見ていた。

始まったのが、1969年10月というから、アポロの月面着陸後のことだった。

 

ドリフターズによるこの番組の進行は、

長さんの『おっす』から始まり、エンディングのカトチャンの『歯磨いたか』まで流れるようなワンパターンだった。

オープニング⇒前半のコント⇒歌謡曲⇒体操⇒ショートコント

などなど、時代によりいろいろなヴァリエーションがあったが、楽しいものだった。

 

この番組は、テレビの楽しさそのものだったような気がする。

この時間になると家族みんなが、テレビの前に集まり、ともに笑った日々があった。

大人も、子供も、女性も男性も、お茶の間の光景が目に浮かぶようだった。

 

それは、一週間の疲れを癒やすには十分なものだった。

この番組で一番のお気に入りは、仲本工事さんの体操コーナーだった。

特に印象に残るのが、キャンディーズと桜田淳子さんの時だった。

 

マットの上で前転をしたり、比較的簡単なものだったが、それでも、失敗しないか、まっすぐ転がれるか、など拝むような気持ちがあった。

 

演技を終えると、かわいくガッツポーズで締めくくるのだが、かわいさより、終わった安堵の方が強かった。

 

僕は、比較的楽天的な性格なのだが、淳子さんのときは心配だった。

これは、歌のときも同じ気持ちだった。

デビュー前の幼さが残る時から見ていたので、歌手を見る目線とは違っていたのだろう。

 

『花物語』の頃からだろう。

ようやく安心できるようになったのは。

しかし、この頃から。僕には悩みができた。

『花物語』の頃が思春期まっただ中だったせいか、この歌が心の中に入り込んでしまった。

この歌が気になって仕方が無かった。

そして、少女を悩ませることに罪悪感にも似た感情を覚えるようになっていたのかも知れない。

僕は、淳子さんの世界に入り込んでいた。

そして、『三色すみれ』『花占い』と続いていく。

 

僕は、思春期をこの歌とともに過ごした。

そして、『守りたい』という意識が芽生えた。

もしかしたら、今このブログを書いているのは、そうした潜在意識に駆られているのかも知れない。たぶんそんなところなのだろう。

 

しかし、そんな僕が解放される日が訪れる。

『はじめての出来事』がリリースされ、僕は、やっと淳子さんを歌手として聴けるようになっていた。

 

『はじめての出来事』が、淳子さんの最大のヒット曲となったのは、そんなファン心理が影響しているのではないかと思う。

ファンは、この曲で心の自由を得た。

それまでは、淳子さんの世界に捕らわれていたとしか思えない。

 

どちらの時が幸せだったかは比較できないが、懐かしいも、甘酸っぱい記憶としかいいようがない。

追伸 動画のUP主様には感謝します。


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桜田淳子 花物語~そこにみるものは [歌]

1973年のレコード大賞新人賞は熾烈だった。

そして、当時のレコード大賞には、今では信じられないくらい権威があった。

レコード大賞新人賞のステージに立ったのは、浅田美代子、安西マリア、桜田淳子、あべ静江、アグネス・チャンだった。

僕らが、息をこらして見守った最優秀新人賞の審査の結果は、桜田淳子さんに決定した。

当時、テレビに釘付けになり、ホッとした気持ちとともに、新鮮な驚きがあった。

しかし、その後の彼女の活躍を見るにつけ、それは当然のことだった。

しかし、なぜ桜田淳子だったのか。彼女すら、自分の力だけで勝ち得たものではなく、みんなの力の結晶だということを、何度も自分に言い聞かせていたといわれる。

喜びに浮かれるのではなく、その意味を知ろうとする15歳の少女の姿勢にこそ、最優秀賞がふさわしいのかもしれない。

その後行幾たびかの賞を受賞するが、彼女の反応は同じものであり、周りを気遣い、山口百恵という友を気遣い、決して浮かれることなく次に向かう姿勢がそこにあった。

14歳にしてその考え方は確立していたといっていい。それは、彼女の親友が上京の際、彼女に送ったとされる手紙の影響であるのか、彼女の人間性そのものであるのかわからないが、周りを気遣うのは彼女の根本的な考え方であることは間違いない。

最優秀新人賞の受賞により、桜田淳子は、当時国民的アイドルの天地真理の後継者の最有力候補となった。しかし、その天地真理を超えるものでなければ後継者とはなり得ないと思う。

桜田淳子が桜田淳子であり得た理由、そして、当時の国民的アイドル天地真理ではもはや表現できないもの、それが、天地真理の後継者足りえた理由ではないかと思う。

後継者は、コピーではなく、独自の輝きとともに、才能を持つものだと思う。

それは、彼女の演劇的素質にある。

彼女の4枚目のシングル『花物語』にこそその秘密が隠されている。

この曲の語りとしてのセリフは、彼女の秘められた素質を世に知らしめた。そして、アイドルの正統的な後継者であることを関係者に知らしめるには十分であったと思う。

この思春期を歌い上げる姿こそ、天地真理の表現できなかった部分だと思う。

新人賞の審査員たちは、受賞曲こそ『わたしの青い鳥』であったが、彼女の秘められた才能を見たのであろう。

それは、作詞家阿久悠氏が、デビュー前の彼女にみた光景と同じものだったかもしれない。

しかしながら、もはや蛍光灯の淡い光に包まれたものではなく、解き放たれた輝きだったのではないか。

そこに見たものは、それまでの音楽ではなく、アイドルの新しい形であった。 アイドル文化は、日本独自の新しい時代を迎えた。

それは、脈々と今も受け継がれている。

追伸

動画のUP主様に感謝します。


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桜田淳子という存在〜登場の背景

70年代という時代は何だったのか。
大衆文化への移行期ではないかと思う。

この時代というものを、ある番組をとおして紐解いてみたい。

1970年2月、『時間ですよ』という人気ドラマがスタートした。
主演は森光子、他には、堺正章や悠木千帆(後の樹木希林)らが出演し、天地真理、浅田美代子らの出世作にもなった。伝説の番組だ。

この、番組は白黒の番組としてスタートをきった。
まだ、国民が買えるのは、白黒テレビが主流だったことも影響しているのだろう。

1971年7月から、『時間ですよ』はカラー番組となる。そして、天地真理が起用され、国民的アイドルへと成長していく。

1973年2月からは、浅田美代子が登場し、やはり国民的アイドルとなる。

この番組から生まれたヒット曲が、浅田美代子「赤い風船」 、堺正章「街の灯り」である。いずれも心に残る名曲だと思う。

1969年に、日本は世界でカラーテレビ生産第1位国になるものの、1970年にアメリカにダンピング認定を受け、日本でも二重価格への消費者運動あり、カラーテレビの価格が下がった影響もあり、73年には、カラーテレビの普及率が、白黒テレビを上回るようになった。

しかし、さらなるテレビの販売を高めるには、映像の精度を高めなければならない。

『時間ですよ』は、そんなカラーテレビ時代の移行期を映し出すものとしては興味深い。

そのような時代背景の中、放送業界の使命として、いかにカラーテレビに見合う番組作りをするかにあったといえよう。

そのためには、よりビジュアルなものが求められる。
白黒テレビに映し出される映像は、やはり、ラジオの延長線上で、それまで、アナウンサが実況放送していた部分を映像で補完するようなものだったように思う。

事実、白黒テレビで出演者の顔の表情の変化まで映し出すことには限界がある。

テレビ局としては、カラーテレビに相応しい、芸能人をもとめるのは必然だった。

カラーとなった『時間ですよ』から、天地真理が生まれ、浅田美代子が生まれたのは余りにも当然過ぎたのかもしれない。

そして、テレビ局は独自のオーディション番組をつくり、あらたな可能性を発掘していく。
その代表が、1971年10月スタートの『スター誕生』だった。

それでも、芸能界の敷居は高かった。
ナベプロの一極支配のもとでは、視聴者といえども、おいそれとオーディションに参加するには抵抗があり、森昌子のような聴かせるタイプが主流であった。
カラーテレビでなくてもよかったのかもしれない。

そんな中、翌年72年7月、新たな才能が登場する。

それはテレビ関係者からみて、カラーテレビ時代のビジュアルの主役になれる逸材だった。
阿久 悠さんの表現を借りれば、『蛍光灯の淡い光』に包まれたような存在だった。

それが、一人の14歳の少女の運命を決定した。

桜田淳子という存在を、目撃したことにより、状況は一変したといっていい。

『スター誕生』という番組への関心度は高まり、番組の目的は『第二の桜田淳子』を探し始め、応募者は殺到した。

山口百恵さんもその一人だ。12月の決戦大会で準優勝にとどまっている。それでも、20社のスカウト陣の目を引き付けた。

そこには『第二の桜田淳子』を見たのだ。

桜田淳子は、デビュー前にして、関係者を色めき立たせた。

そして73年2月25日歌手デビューした。
桜田淳子は、各テレビ局独自のオーディションでもその評価は1番だった。

それは、番組出演への優先枠を意味する。
その才能は、当時芸能界のナベプロにも影響を与えた。

刺激を受けたナベプロは、1973年4月より独自にオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』をNETテレビ(現・テレビ朝日)で放送を開始する。

しかし、『あなたならOK!』の放送日時となった月曜日の夜8時という時間帯は日本テレビがナベプロの歌手も出演していた『紅白歌のベストテン』を放送していたため、ナベプロは『紅白歌のベストテン』からの撤退を決定。

そこで、ナベプロと日本テレビは全面対決となる。流通革命と同じ構図だ。

チャネルの主導権争いを制するのは、供給者なのか、媒体なのか。
勝敗を分けたのは、ファンの目線だった。

『スター誕生』出身として、前年の森昌子、その年2月の桜田淳子のみならず、5月21日山口百恵も歌手デビューし、その後も番組には魅力的スター候補生が登場した。

もはや、旧態依然とした帝国には芸能界の流れ、勢いはとめる事はできない。『あなたならOK!』はその年の9月で番組を終了する。

それでも、ナベプロには道があった。
その年の新人賞レースは熾烈だった。

カラーテレビ時代の『華』を求める戦いといっていい。
ナベプロの望みは、香港出身の『アグネス』だったのかもしれない。

そして、次なる攻防が続けられるのだが、攻防の歴史の果てに傷つく者があることを、この時代人たちは予測しただろうか。

昭和のアイドル再考〜桜田淳子と山口百恵

昭和アイドルと聞いてどんな印象があるのだろうか。

今さらという感もする。

しかし、昭和アイドルには、時代を映し出す鏡があった。

昭和アイドルの中に、70年代を代表する桜田淳子と山口百恵がいた。80年代以降松田聖子、小泉今日子がいる。

何れも功績を残した記憶に残るトップアイドルだ。
松田聖子、小泉今日子は、現役だから、語るに及ぶまい。

従って、芸能界に革命をおこした、桜田淳子と山口百恵を語らなければならない。


二人のオーデションでの歌が、YouTube で紹介されているので紹介したい。

 

まさに、よく似た二人だった。しかし、二人の幕引きは、誰の目にも余りにも対象的に思える。

山口百恵が神格化したかのごとく扱われるのに対し、桜田淳子は『堕天使』の扱いだ。

仲の良い二人を分けたのは、何だったのだろうか。

それは、二人の技量をこえたところにあった。

答えの一つは、70年代を吹き荒れた風にあった。その風に乗ったか、あるいは乗らなかったか。その違いにある。

それは、二人の生い立ち、性格、境遇、に起因すのであろう。

だからこそ、その選択は、彼女らにとっては何れも正解だったと思う。

時代の風に立ち向かった方は、本人も認めるように硬すぎる性格だったのかもしれない。

このブログは、頑ななまでに一途であろうとした桜田淳子を中心に考察したいと思う。

動画のUP主様に感謝いたします。


桜田淳子の輝きの時代 [歌]

 

青春時代、これだけ長い期間、成長の過程を見せられた歌手はいないように思う。
1973年14歳で歌手デビューして、数々の表情を魅せられた。

 

特に、その表情の変化は、1975年から1976年を中心として著しかった。

 彼女の髪型の変化を指し、セミロング時代と言われている。
 

今回は、その眩いばかりの変化を振り返ってみたいと思う。その容姿についてはこの映像がすべてを物語る。


曲は、『一人歩き』『17の夏』『ゆれてる私』『夏にご用心』『ねぇ 気がついてよ』というメドレーだ。

その中から『ゆれてる私』197511月発売の13作目

前作 『天使のくちびる』に続いて、淳子さん最強時代の核となる曲だと思う。

アイドルど真ん中の時代だ。 表情は自身に満ち溢れ、無敵の表情だ。

よく、桜田淳子さんには、デビュー前からオーラがあった。といわれ、ルイルイの太川陽介さんも、すれ違っただけで、淳子さんの容姿を見て、そのように述懐している。 

この時期の表情は、オーラというありふれた抽象的な表現がどれだけ人の心に語りかけるかわからないが、この動画はその言葉がすんなり当てはまる。 

前奏の時の不敵な笑みが、一転して、歌唱が始まると、瞳に憂いが宿る。

そして、『あなたはどうするつもりなの』と迫ってくる。

かと思えば『目をそらす』で、瞼を優しく閉じる。

この押したり引いたりされると、一気に引き込まれるものなのだろう。 

後は、語るまい。この動画を観ていただければ十分だと思う。

 

表情にも『黄金比』があるとすれば、この表情のバランスはまさに黄金比なのだろう。

と同時に、顔のバランスは、時を超え、美しさの比率とされる黄金比だと思う。

 

これが、アイドルの領域を超えた桜田淳子そのものなのだろう。

追伸 動画のUP主さんには、このような動画をUPされたことに感謝します。

 


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